: 2012年12月04日

「福島のみなさん」取材をはじめるキッカケ

「福島のみなさん」取材をはじめるキッカケ

 この企画は記者クラブという現在のマスコミ報道のシステムにより、被災地とりわけ放射能の汚染が酷い福島県に対する報道がなされなくなること、ひいてはそれが福島県民への棄民となることを恐れて始めたということがあります。
 僕がテレビ・新聞の報道に疑問を持つようになったのは1994年の松本サリン事件の時からです。ご承知のようにマスコミは警察のリークをそのまま流し続け、河野義行さんという一市民であり、事件の被害者を犯人へと導こうとしました。推定無罪の原則を蔑(ないがし)ろにして、テレビ・新聞は彼を犯人であろうと連日、報道し、彼や彼の家族など周辺の人々を疲弊させました。実は僕も最初はテレビ・新聞の報道を鵜呑みにして彼が犯人だと疑ってもいました。しかし、現実はそうではなかった。
 翌年、地下鉄サリン事件が起きて河野さんの無実が証明されるとテレビ・新聞はどうしたか?一応の謝罪をしたものの、河野さんに対して誠心誠意の対応をしたかというとそうではなかった。元々、自分たちのしたことがなぜそうなったのかを検証するテレビも新聞もなかったのです。この辺りは最近の原発、放射能に関する報道でもほとんど変わってないと思います。
 僕は松本サリン事件の顛末がわかるとそれ以来、テレビ・新聞のニュースを100%信用することはなくなりました。彼らが自分たちで取材することよりも警察からの情報を権力者たちのいいように報道する。このことを僕は常に考えるようになり、報じられているニュースが誰が得するのかをまず考えるようになりました。  実はこの頃はまだ「記者クラブ」という言葉は知らなかったのですが、2009年の政権交代の前後、僕は個人で超党派の活動をしている自称「国会ロビイスト」のドキュメンタリー映画を製作しようと、永田町周辺で撮影をしていました。そうして、その頃、上杉隆さんというフリー・ジャーナリストが脚光を浴びてきて、彼の言による「記者クラブ」というシステムを知ることになりました。彼の本も何冊か読みました。
 このシステムが先述の松本サリン事件の誤った報道を生み出す元凶なのだと思いました。このシステムが蔓延(はびこ)っている限り、同じようなことは必ず起こるだろうとも考えていました。
 ただ、この記者クラブの話を周りの人間に話してもピンと来る人はいませんでした。さっきのドキュメンタリー映画の主人公であるロビイストもこのシステムの弊害には興味がない様子でした。でも僕はその映画のラストシーンの辺りに政権交代の日に首相官邸内の記者会見に僕らが入れなくて官邸前の衛視と口論する主人公の姿というのは撮影しましたが…。

 東日本大震災が起こった2011年3月11日は僕は帰宅難民になってしまい、浅草に住んでいる友人家族のアパートに泊まりました。翌12日に福島第一原発が危ないんじゃないか?という情報が流れて、その家族の4歳の娘さんは親御さんと親御さんの実家のある九州にその日のうちに避難しました。
 震災前、原発に関することは先述のあのロビイストが反原発を唱えていて彼の言の中で「火力、水力と違って原発は一旦稼動するとコントロールできない。だから電力の30%を上下させることはしない。」ということを聞いており、コントロールできないものは人間が使ってはいけないものだなとは感じていました。
 僕は長崎県出身です。僕の実家は佐世保市の北に位置する佐々町(さざちょう)という小さな町ですが、小学校の時、見学旅行といって長崎市まで日帰りのバス旅行をします。長崎市では県庁や平和祈念公園の見学などと共に原爆資料館の見学も行います。僕が行ったのは1974年頃だと思うのですが、その時の体験は強烈なものでした。
 黒焦げの胎児のホルマリン漬けがあったり、両目が白濁し、頭のテッペンから股のところまで一直線に縫合されて座っている赤ん坊の大きなパネル写真があったのを今でも鮮明に覚えています。家に帰った後、その夜は怖くて一人で眠れず、母親の横で添い寝したこともまた鮮明に覚えています。トラウマになるくらいの出来事だったのです。
 ちなみにその後、高校時代に一度、大学時代に一度、そして近年にも一度と計三度、原爆資料館を訪れましたが、それらの資料はもうありませんでした。昔は知人から「海外を回っているんだろう」と言われ納得していましたが、今となってはそれが原子力ムラの策略だったのではないかと疑念を抱いています。

 核の恐怖とそれを引き起こした戦争という行為。自分の中ではこれらのことに対するドキュメンタリーの製作というものを震災前には考えていました。特に戦争時の一般市民の生活の証言に最も興味がありました。戦闘のことや原爆製作(マンハッタン計画)のことなどは文献や映画などですでにあったからです。
 しかしそういう状況であった割りには震災後、僕はすぐには行動できませんでした。福島の地で起きていることは戦争と言っても過言ではない状態だとは思っていました。けれど、福島という土地に一度も足を踏み入れたことがなく、何をどうしたらいいのか?あるいは、どこからどう手をつければいいのか?など、自分が躊躇していたことは確かです。悶々としていました。ただ、被災地とりわけ放射能汚染が酷かった福島県のために僕ができることをやりたかったのもまた確かなことでした。
 その頃、僕は自主製作の特撮映画を作るグループのドキュメンタリーを作り、それが終ってからはそのグループに参加して特撮作品に出演していました。その共演者の中に福島県須賀川市出身の20代の女性がいて、僕は彼女に福島へ行くにはどのようにすればいいかと相談し、彼女も協力してくれました。そうして、ようやく福島への取材、「福島のみなさん」の製作が始まりました。2011年5月下旬のことでした。

 それから、毎月、最低一回は福島へ行き、住んでいるみなさんのお話を中心に取材させてもらっています。月一回程度ですので、なかなか広範囲とは行きませんが続けさせてもらえて光栄なことだとは思っています。
 ご協力いただいている福島のみなさんやご視聴されているみなさんへはただただ感謝の気持ちしかありません。テレビ・新聞は予想通りとしても、フリー・ジャーナリストでも取材されている方は少数であり、はなはだ残念なことです。
 僕のような取材方法が必ずしも最良ではないと思いますが、僕にはこれしかできません。プロでもアマチュアでもいいので、少しでも多くの人が福島の現状を世の中に伝えていくことを切に願っています。今はそれしかないと思っています。

<終>

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